「理不尽」と叫び泣いてもがいていた子どもを抱きしめたい ~読売新聞大阪本社の『性暴力』を読み返して振り返る~
先日性暴力を描いた映画『月光』についての記事で性犯罪報道 (中公文庫) が引用されていました。
この「性暴力がどんなに被害者の人生を壊すのか、あまりにも知られていないから」
という言葉に覚えがあったのです。
おそらく私ではないかと思いました。
匿名だったので同じことを違う方が言っていたのであれば申し訳ありません。
そこで献本していただいていた同じ読売新聞大阪本社の『性暴力』 を読み返しました。
とても失礼で申し訳ないのですが、掲載されたと献本を頂いたにも関わらず、しっかりと読めていなかったんです。
時期から考えると送られてきたときが、フラッシュバックの直後で精神的に不安定だった時で、開けずに仕舞っていたということだったと思います。
記憶が少し曖昧です。
自分の経験や振り返りを中心にしながら今も解決されていない現状や活動している方々や制度について考えさせられたので残しておきたいと思います。
本の感想と言うより、当時の自分と向き合って気付いたこと中心です。
私は当時ブログで性暴力被害を実名顔出しで公開していました。
それを見た読売新聞の久場さんに取材していただきました。
当時裁判中だったことから匿名で掲載されたため、該当部分も匿名で間違っているところもあるかもしれませんが
冒頭のP.4はじめに「性暴力がどんなに被害者の人生を壊すのか、あまりにも知られていないから」
という言葉はこちらにもありました。
またP.36の埼玉県の22歳女性の話とP.32の写真の文章も私です。
当時体験を書き綴ったブログが炎上し、誹謗中傷をうけたことや、励まそうとすることにより起こるセカンドレイプのことを語っています。
まだ大きな被害に遭ってからそこまで年数が経っていない頃でした。
当時に比べて性暴力含め、性の話をすることの抵抗が、私の精神的にも文化的にも減ったと感じました。
スマートフォンの普及やTwitterなどの気軽なSNSの台頭で発信をすることのハードルが下がったからかも知れません。
また、アクセスできる情報や機関が本当に少なかった当時に比べて不十分ながら変わってきたことを実感します。
公共機関も性暴力に対しての支援への取り組みが増えたり、アクセスできるようになってきていると感じます。
性に関する取り組みで活動している人が目に見えるようになってきたと感じます。
同じ経験をしている人が少なくないことも可視化され始めました。
本書にあるように、性犯罪被害者支援ワンストップセンターができたり、埼京線の先頭車両に防犯カメラもつきました。
小林美佳さん、大藪順子さんは多くのサバイバーにカミングアウトする勇気をくれました。
私も小林美佳さんの本は大きなきっかけの1つでした。
矢面に立つことは得意でしたから、こう言うやり方があるとしれたのは本当に有りがたかったと思います。
そっか、前に出て変えるために動くことができるのか、と。
早い段階でしあわせなみだで活動したり、 一緒に活動してくれる人がいた私でもあの頃の孤独感は今でも忘れられません。
同年代の女の子に話したときには泣かれてしまったり、詳しく話す前に活動を知り
「どうせ大したことないことで騒いでいる人」と思われているのが口に出さないもののわかってしまうことも多く、詳しいことは話さない。
性暴力に関する活動をしているというと
「男の敵」「怖い」「被害者ぶっている」
と思われ、性犯罪に関するNPOをやっていて当事者ということで腫れ物扱いを受け、
仕事をするときに隠さないけれど言わないようにするということもありました。
そういう時から考えると今は、自分がやっていることを堂々と言える、一緒にやろうといってくれる同世代に出会えて、幸せだなぁと思うと同時に
本当に微力ながら7年やってきてよかったのかもしれないと思いました。
自分の記事を読み返して、
私は、とにかくずっと世の中の理不尽さに傷ついていたんだなと思いました。
私はフラッシュバックと悪夢は本当につい最近まであったのです。
寝る前よりも体力と精神力を消耗するので、眠るのが嫌でした。
しばらく起きていなくても、いつ起きるかわかりません。
大きな被害からは何年経ってからもです。
私は去年からいい病院とカウンセラーさんに巡りあい、自分を大事にする練習、休む練習をして、自分が今までどれだけのことをしてきたのか振り返り、自分を認めることができるようになりました。
そして自分が悪いで思考停止するのをやめ、酷いことをされたときに怒ることができるようになってきました。そして気づけば私は悪夢を全く見なくなりました。
それから1度8月に事件があったので自分を見失いかけましたが、早い段階で立ち直る事ができました。
だからそのときの気持ちは忘れていたのです。記憶力はきっと良いほうなのに。
認識としては覚えているのに気持ちを、実感を。
私はよく寝ながらうなされるのは理不尽な出来事に遭う夢でした。
自分は何も悪いことをしていないのに、自分の意見は無視される、嘲笑われる。
自分が悪者にされる。
起きても寝ると続きで夢から抜け出せない。
無抵抗のまま、何度も何度も殺され続ける。
追いかけられ続ける。
加害者と自分が当たり前のようにセックスをしている夢。
そんな夢を見ながら私はうなされ
「理不尽!」と泣き叫んでいたいたと聞きます。
私はつい最近になるまで精神的に本当に子どもでした。
守られて生きていたからです。
自分が傷ついたことで、いっぱいいっぱいでまわりを傷つけていることに無頓着でした。
だからかけられた言葉の中にも精神状態が悪く余裕のない私の行動や
言葉の選び方に問題があったり、誤解をされたり、私自身が相手を理解しようとしていなかったり、そういうことが原因なことも多いと思います。
しかしそれを踏まえた今でも理不尽には変わりないと昔の私に教えられた気がします。
ただ私は理不尽さが耐えられなかった。
性暴力を受けたというだけで身体のコントロールが効かなくなる。
お前が悪いと言われ続け、お前の存在が迷惑だと言われ、これ以上迷惑をかけてはいけないと考え、当たり前にできる人の何倍もの労力をかけ、いくら努力をしても力尽き、自分のしたいことができなくなる。
それは「体調管理ができていない自業自得・実力不足」と言われる。
責任のない行動をした自分が許せなくて自分を責め続ける。
そんなふうにもがきながら理不尽さを身体をすり減らしながら叫んでいた。
「理不尽」という言葉は忘れちゃいけない心の叫びだったのだと思います。
そういう子どもだった自分を恥じて恥じて人に優しくなりたいと自分を嫌い、それでも必死に向き合ってきた自分は受け入れられるようになってきたけれど
まだ相手の気持ちを考えられていなかった頃の私を恥じて嫌っていました。
でも、今あらためてこの本を読み返したことで理不尽と泣き叫んでいる私を抱きしめ返すことができるような気がします。
良くなったということばかり書いてしまいましたが、それはあくまで前進した一部のところの話です。
SNSが台頭したことにより人を中傷するハードルが下がりましたし、スマートフォンの普及により新たな加害も生まれました。
未だに変わっておらず解決されていない問題がほとんどです。
被害者を何十にも生む社会構造が現実としてあります。
支援機関・制度にアクセスできるものの、存在を知りません。
沢山の人が傷ついて、壊れそうになって救われていません。
そこを変えていくために、あの頃の私にはできなかったけれど、あの頃の私がいたから考えることができる手段で、これから少しずつ、微力ではありますが、勉強し、活動していきたいと思っています。
今いろいろなことが重なって本当に余裕のない時期だけれど、そこを押してでも書きたい、書かなければと思ったので書きました。
最後に性暴力に関する記事を早い段階から積極的に取り上げて下さった読売新聞の方々、配慮のある丁寧な取材をしてくださった久場さんへの心からの感謝を記させていただきます。