あなたと私はここにいる~A-live connect卜沢彩子のブログ

A-llive connect卜沢の思うこと、伝えたいことなど書き綴ります

苦しいと、楽しいは両立する。 放映を終えて思うこと・2

前回放映の感想を書きましたが、数日経って感じる違和感について書きたいと思います。

 

色々な方からご連絡や感想をいただき、返せていないものも多いのですが、少しずつ返せたらと思っています。

 

あの放送では、私の役割は「被害の実態を語る被害者」だったと思います。

山本潤さんは被害者で活動家、林弁護士は慎重な意見を持ち偏らないための専門家からの視点。

 

性犯罪の実態を伝える上で必要で、そういう意味でトータルでいい番組だったという感想は変わりがありません。ただ、私個人の見え方という意味では伝わり方が違ったのかなと思うところがあります。

だから私個人として思うことを書きたいと思います。

 

放送のカウンセリングの最後で活動について語っていましたが、私は波はあるものの性暴力に関わる活動は7年しています。

語ることで、自分だけでなく、他の人に少しでもいい影響があって、救われる人がいるのなら・・・という場面がありましたが、一番言いたかったことは、その後でした。

 

私がいつも思っているのは

辛い経験も自分が前に進むためになったり、他の人の助けになるなら、"それはあってよかったことになる"

ということです。

 

被害に遭って「よかった」というのは語弊があるかもしれません。それでもそれによって私は似たような被害で苦しむ人の気持ちを知ることが出来ました。

被害に遭って人間が信じられなくなりそうなときも、優しくしてくれた人がたくさんいました。

被害に遭って活動したからこそ、出会えた人たちがいます。

私がいたから生きていると言ってくれた人もいました。

 

 

だから私は 

「世界にはどうしようもない悪意もあるけれどそれと同じ分だけの優しさがある」

「私は人を好きでいることをやめたくない」

と強く思いました。

 

私は今でもずっと人間が好きです。

 

 

人間は凄く汚いけれど、だからこそ美しいんだと思います。

 

 

汚い部分はだれだって持っています。100%の善人など存在しない。

だからこそ、その上で優しくできることは美しく価値があると思っています。

 

悪意は確かに存在するけれど、人を傷つけたくて傷つけている人は少ないと感じています。傷つけていると知らない、認識できないから傷つけることのほうが多い。だからこそ知ってもらう活動が大事だと思っています。

 

 

被害と向き合い「あってよかったこと」と思えるようになる。そういう回復だってあるのです。

被害者みんながこうだよ、というわけではないけれど、あえて向き合うことにより立ち直って回復することだってあるのです。

 

「辛いだろうに、笑顔を取り戻して」

 という声をかけてもらったりしました。

たくさん気を遣っていただきました。その気持ちは本当に嬉しいことですが、少し違和感もあります。

 

人間不信にもなりました。

完全に回復しているとは言えません。

フラッシュバックは何年も経って突然やってくるときもあるのでそこからまた長く苦しくなったります。

 

私は去年のベンゾジアゼピン離脱症状から、調子がおかしくなっているのでまた当時とは違う種類の苦しさが今あります。 

それでもたぶん人一倍楽しいな、幸せだな、と感じる時間が多いほうかなと思っています。苦しくも楽しくもなんともない時間は少ないのですが。

 

被害者も被害で苦しむとはいえ、24時間落ち込んで泣いているわけではないことだって多いと思います。波はあります。苦しい時間の中に楽しい時間や苦しくない時間が少しずつ増えてきて回復するのです。

 

被害に遭うのは、苦しいです、辛いです。

でも楽しい瞬間だってある。

苦しいことと楽しいことはどちらもある。

 

あの放送では緊張で顔が硬かったし、笑顔は少なかったですが私は当時からアクティブで人好きで元気で良く笑いました。無理をする癖もあるからよく倒れましたが。

 

 

でも必ずしも苦しい人の楽しさは無理だけではない、ということを知ってもらえたらな。と思うのです。

苦しみにある人の楽しさを、楽しむことを否定しないで欲しい、と思うのです。

 

その前提がなければ、

「苦しんでいないから被害なんてなかったのではないか」

というセカンドレイプを生むことになると思います。

 

鬱の人やほかの生きづらさを抱えている人にも同様の声がかけられますよね。

遊べるなら、楽しめるなら大したことがないと。

 

私が裁判で負けた理由の一つは、当時のブログに

「学生団体のミーティングをしたなどの楽しそうなブログを書いていた」

ということでした。

 楽しい瞬間などあるわけがないという前提があるから生まれる判決だったのではないでしょうか。

 

生きづらさにある人が楽しむことを否定してしまったら回復も遅れます。

苦しいのに楽しめというのは違います。

ただ、楽しんでいることを、楽しむことを受け入れてもらえたらなと思います。

 

 

私は同情を引きたいわけでも、褒められたいわけでもありません。

悪く言われるのも過剰に弱く見られるの変に強く見られるのも嫌だったりして。 

じゃあ何なんだよと言うとその上で進んでいることを、変えるために動いていることを認めて欲しいだけなのだと思います。

 

私個人を嫌っても仕方ないと思います。それなら、性被害の実態に興味を持ってくれればいいし、私以外のことで知ってもらえればいい。

 

ただ、私個人を見てくれるのであれば、そういうところを認めてもらえたら、嬉しいです。伝え方が上手くないのか、言葉が実は足りないのか、私は身近な人にすら極端な誤解をされやすいです。

 

「苦しいんだけど、そこじゃない、楽しいんだけどそこじゃない・・・」

という状態になりすくてもどかしい、難しい。わかりやすくないんだろうなぁ。

メンタル弱いようでいて私、結構たくましいと思うよ?(笑)

 

 

見ないようにする、触れないようにするのでなく、向き合ったうえで乗り越えたい。

伝わらないなら伝える努力をしたい。わからないなら、わかりたい。

そんなことを思いながら、日々暮らしているのです。