【6/26(日)】映画『月光』鑑賞交流会を主催します。小澤監督ゲスト参加!【新宿】一部受付中、二部キャンセル待ち
「魂を、見に行こう。」
性暴力を描いた映画『月光』が今月6/11より公開開始します。
男性監督ということも話題になっています。
映画だけ一緒に観に行きたいという方は一部のみのご参加でも大丈夫です。
以前映画を見たけれど感想を語りたい!という方は二部のみの参加も可です。
(映画を見ていない方はご遠慮下さい)
◆映画が好きで監督と話してみたい方
◆「映画を見たあとは感想を語り合いたい!」という方
◇ 社会問題に興味のある方
◆ 小澤監督のファンの方
気軽ぜひご参加ください!
なにかありましたらご遠慮なさらず、声をかけてください。
◇この会では無理な自己開示等は必要はありません。
話したくないことを強要する行為はご遠慮ください。
【ゲストプロフィール】
監督・脚本・編集。
児童虐待や機能不全家族、性暴力被害、若者のホームレスといった切実な社会問題をテーマに描き続けている。
長編第2作『風切羽~かざきりば~』(監督/脚本/編集)は、2013年全州国際映画祭(韓国)のインターナショナル・コンペティション部門に
ノミネートされ、作品賞にあたる「Best Picture Prize」を受賞。日本全国16館で劇場公開され、大きな反響を呼んだ。
ぜひ気軽にご参加ください!
こちら詳細になります。
社会派映画監督小澤雅人監督ゲスト参加!性暴力を描いた映画『月光』鑑賞交流会
私のTwitterからもお問い合わせ受け付けていますのでご気軽にご連絡ください!【6/26(日)16:00~21:00 新宿性暴力を描いた映画『月光』の鑑賞交流会を主催します 映画を劇場で見たあと監督と食事やお茶をしながらお話できます。 参加費は各自飲食代とチケット代のみ
— 卜沢彩子@6/19,26月光鑑賞交流会 (@ayakourasawa) June 6, 2016
お気軽にご参加ください! 詳細はこちら https://t.co/JTADCMcuCn
1部のみのご参加で受け付けております。
以下 変更事項とイベント概要と注意事項です。
お読み頂きご了承の上ご参加下さい。
※変更・注意事項
■当日TVの取材が入ることになりました。
卜沢と小澤監督中心で映すため、映りたくない方は事前に卜沢までご連絡頂くか
集合の時点で、担当者から確認が入るのでお伝え下さい。
勝手に撮り始め映すということはなく、顔は映りたくない、声だけなら良い、発言内容はNG、
完全にカメラから外して欲しい等柔軟に対応できますので
お手数ですがご協力をお願いします。
■集合に遅れる場合は必ずご連絡いただき、移動までに間に合わなかった場合は会場まで直接いらして下さい。
■二部交流会の食事メニューになります。
http://cafe-kuraudo.com/menu/index4.html
人数が多く提供に時間がかかるため、軽く目を通して、
食べたいものなど目星をつけておいて事前に連絡いただけると早く提供できるとのことです。
食べたいものは当日次第にはなるとおもいますが、
もしこれを頼みたいと決まっている方はご連絡いただけると助かります。
ケーキを頼みたい方は無くなる可能性が高いとのことなので事前にご連絡下さい。
■性暴力を描いていることからフラッシュバックを起こす可能性があります。
上映中、交流会中など途中退場可能です。
体調を崩された方はご無理なさらず、遠慮無くお声掛け下さい。
お水もご用意していますので薬を飲みたい等ありましたらお気軽にお声掛けください。
■この会では無理な自己開示等は必要はありません。
伺った呼び名で統一する予定です。
話したくないことを強要する行為はご遠慮ください。
【詳細・注意事項】
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【日時】
2016年6月26日(日) 16:00~21:00
■一部
映画鑑賞会
16:00 新宿東南口駅改札前集合
(当日月光映画鑑賞交流会と書いた紙をスタッフが持っています)
16:30 上映開始
18:35 終了
■二部
18:55 頃交流会開場前で二部参加者合流
19:00~21:00
感想交流会
【会場】
■一部
新宿k's cinema
J R新宿駅 東南口 徒歩3分/東口 徒歩5分
東京メトロ丸の内線 新宿三丁目駅 A5出口 徒歩2分
東京メトロ副都心線 新宿三丁目駅 E9出口 徒歩2分
【地図はこちらです】
http://www.ks-cinema.com/access/
【上映時間】111分
■二部
カフェ&バール くらうど
新宿駅から徒歩4分 サザンテラスおりてすぐ
代々木駅より徒歩2分
【地図はこちらです】
http://cafe-kuraudo.com/location/index.html
大型個室を席のみ予約をしてあります。
【集合場所】
一部:JR新宿駅東南口改札前
二部:カフェくらうど入り口階段付近
下記メールアドレス宛に
「件名」に一部のみ参加、二部のみ参加、一部二部参加のいずれかを、
「本文」に氏名、ふりがな、緊急連絡先、当日の呼び名をご記入の上お送りください。
※当日は呼び名で統一致します。本名で構わないという方は本名をご記入ください。
お問い合わせの方は問い合わせと件名にご記入の上、ご連絡ください。
【主催】特定非営利活動法人しあわせなみだ(担当:卜沢)
「理不尽」と叫び泣いてもがいていた子どもを抱きしめたい ~読売新聞大阪本社の『性暴力』を読み返して振り返る~
先日性暴力を描いた映画『月光』についての記事で性犯罪報道 (中公文庫) が引用されていました。
この「性暴力がどんなに被害者の人生を壊すのか、あまりにも知られていないから」
という言葉に覚えがあったのです。
おそらく私ではないかと思いました。
匿名だったので同じことを違う方が言っていたのであれば申し訳ありません。
そこで献本していただいていた同じ読売新聞大阪本社の『性暴力』 を読み返しました。
とても失礼で申し訳ないのですが、掲載されたと献本を頂いたにも関わらず、しっかりと読めていなかったんです。
時期から考えると送られてきたときが、フラッシュバックの直後で精神的に不安定だった時で、開けずに仕舞っていたということだったと思います。
記憶が少し曖昧です。
自分の経験や振り返りを中心にしながら今も解決されていない現状や活動している方々や制度について考えさせられたので残しておきたいと思います。
本の感想と言うより、当時の自分と向き合って気付いたこと中心です。
私は当時ブログで性暴力被害を実名顔出しで公開していました。
それを見た読売新聞の久場さんに取材していただきました。
当時裁判中だったことから匿名で掲載されたため、該当部分も匿名で間違っているところもあるかもしれませんが
冒頭のP.4はじめに「性暴力がどんなに被害者の人生を壊すのか、あまりにも知られていないから」
という言葉はこちらにもありました。
またP.36の埼玉県の22歳女性の話とP.32の写真の文章も私です。
当時体験を書き綴ったブログが炎上し、誹謗中傷をうけたことや、励まそうとすることにより起こるセカンドレイプのことを語っています。
まだ大きな被害に遭ってからそこまで年数が経っていない頃でした。
当時に比べて性暴力含め、性の話をすることの抵抗が、私の精神的にも文化的にも減ったと感じました。
スマートフォンの普及やTwitterなどの気軽なSNSの台頭で発信をすることのハードルが下がったからかも知れません。
また、アクセスできる情報や機関が本当に少なかった当時に比べて不十分ながら変わってきたことを実感します。
公共機関も性暴力に対しての支援への取り組みが増えたり、アクセスできるようになってきていると感じます。
性に関する取り組みで活動している人が目に見えるようになってきたと感じます。
同じ経験をしている人が少なくないことも可視化され始めました。
本書にあるように、性犯罪被害者支援ワンストップセンターができたり、埼京線の先頭車両に防犯カメラもつきました。
小林美佳さん、大藪順子さんは多くのサバイバーにカミングアウトする勇気をくれました。
私も小林美佳さんの本は大きなきっかけの1つでした。
矢面に立つことは得意でしたから、こう言うやり方があるとしれたのは本当に有りがたかったと思います。
そっか、前に出て変えるために動くことができるのか、と。
早い段階でしあわせなみだで活動したり、 一緒に活動してくれる人がいた私でもあの頃の孤独感は今でも忘れられません。
同年代の女の子に話したときには泣かれてしまったり、詳しく話す前に活動を知り
「どうせ大したことないことで騒いでいる人」と思われているのが口に出さないもののわかってしまうことも多く、詳しいことは話さない。
性暴力に関する活動をしているというと
「男の敵」「怖い」「被害者ぶっている」
と思われ、性犯罪に関するNPOをやっていて当事者ということで腫れ物扱いを受け、
仕事をするときに隠さないけれど言わないようにするということもありました。
そういう時から考えると今は、自分がやっていることを堂々と言える、一緒にやろうといってくれる同世代に出会えて、幸せだなぁと思うと同時に
本当に微力ながら7年やってきてよかったのかもしれないと思いました。
自分の記事を読み返して、
私は、とにかくずっと世の中の理不尽さに傷ついていたんだなと思いました。
私はフラッシュバックと悪夢は本当につい最近まであったのです。
寝る前よりも体力と精神力を消耗するので、眠るのが嫌でした。
しばらく起きていなくても、いつ起きるかわかりません。
大きな被害からは何年経ってからもです。
私は去年からいい病院とカウンセラーさんに巡りあい、自分を大事にする練習、休む練習をして、自分が今までどれだけのことをしてきたのか振り返り、自分を認めることができるようになりました。
そして自分が悪いで思考停止するのをやめ、酷いことをされたときに怒ることができるようになってきました。そして気づけば私は悪夢を全く見なくなりました。
それから1度8月に事件があったので自分を見失いかけましたが、早い段階で立ち直る事ができました。
だからそのときの気持ちは忘れていたのです。記憶力はきっと良いほうなのに。
認識としては覚えているのに気持ちを、実感を。
私はよく寝ながらうなされるのは理不尽な出来事に遭う夢でした。
自分は何も悪いことをしていないのに、自分の意見は無視される、嘲笑われる。
自分が悪者にされる。
起きても寝ると続きで夢から抜け出せない。
無抵抗のまま、何度も何度も殺され続ける。
追いかけられ続ける。
加害者と自分が当たり前のようにセックスをしている夢。
そんな夢を見ながら私はうなされ
「理不尽!」と泣き叫んでいたいたと聞きます。
私はつい最近になるまで精神的に本当に子どもでした。
守られて生きていたからです。
自分が傷ついたことで、いっぱいいっぱいでまわりを傷つけていることに無頓着でした。
だからかけられた言葉の中にも精神状態が悪く余裕のない私の行動や
言葉の選び方に問題があったり、誤解をされたり、私自身が相手を理解しようとしていなかったり、そういうことが原因なことも多いと思います。
しかしそれを踏まえた今でも理不尽には変わりないと昔の私に教えられた気がします。
ただ私は理不尽さが耐えられなかった。
性暴力を受けたというだけで身体のコントロールが効かなくなる。
お前が悪いと言われ続け、お前の存在が迷惑だと言われ、これ以上迷惑をかけてはいけないと考え、当たり前にできる人の何倍もの労力をかけ、いくら努力をしても力尽き、自分のしたいことができなくなる。
それは「体調管理ができていない自業自得・実力不足」と言われる。
責任のない行動をした自分が許せなくて自分を責め続ける。
そんなふうにもがきながら理不尽さを身体をすり減らしながら叫んでいた。
「理不尽」という言葉は忘れちゃいけない心の叫びだったのだと思います。
そういう子どもだった自分を恥じて恥じて人に優しくなりたいと自分を嫌い、それでも必死に向き合ってきた自分は受け入れられるようになってきたけれど
まだ相手の気持ちを考えられていなかった頃の私を恥じて嫌っていました。
でも、今あらためてこの本を読み返したことで理不尽と泣き叫んでいる私を抱きしめ返すことができるような気がします。
良くなったということばかり書いてしまいましたが、それはあくまで前進した一部のところの話です。
SNSが台頭したことにより人を中傷するハードルが下がりましたし、スマートフォンの普及により新たな加害も生まれました。
未だに変わっておらず解決されていない問題がほとんどです。
被害者を何十にも生む社会構造が現実としてあります。
支援機関・制度にアクセスできるものの、存在を知りません。
沢山の人が傷ついて、壊れそうになって救われていません。
そこを変えていくために、あの頃の私にはできなかったけれど、あの頃の私がいたから考えることができる手段で、これから少しずつ、微力ではありますが、勉強し、活動していきたいと思っています。
今いろいろなことが重なって本当に余裕のない時期だけれど、そこを押してでも書きたい、書かなければと思ったので書きました。
最後に性暴力に関する記事を早い段階から積極的に取り上げて下さった読売新聞の方々、配慮のある丁寧な取材をしてくださった久場さんへの心からの感謝を記させていただきます。
生きている図書館第9章に性被害当事者の本として参加します【4/16(土)川口】
直前になってしまいましたが告知です。
4月16日に川口で行われる生きている図書館第9章に性被害当事者の本として参加させていただきます。
去年の私のターニングポイントにもなった生きている図書館(ヒューマンライブラリー・リビングライブラリー)の活動。
去年このりーふぐりーんさんで本としてデビューし、そこから明治大学のヒューマンライブラリーに声がかかり、参加せていただきました。
ヒューマンライブラリーとは人を本に見立てて貸出し、読み聞かせをするように話をするという活動です。
講演などと違い、双方向で話が聞けることが魅力だと思います。
今回もマイノリティや生きづらさがある人や、特別なバックグラウンドがある人が多めではありますが、主催者の意向によるものの、個人的には本は誰でもなれるものと思っています。
誰もが自分だけしか生きられない人生を生きており、語る価値のあることは自分が思っている以上にたくさんあるのではないか、と思っています。
ヒューマンライブラリーを続けている明治大学の横田ゼミのみなさんもミニヒューマンライブラリーとして、自分たち同士で本をやってみたりしているそうです。
前回参加したときはロリータ愛好家さんやラーメン屋さんなども本として参加されていました!
私はまだ本としては初心者なのですが、読者の方との交流でも本同士の交流でも、すごくいい刺激を受けていて、もっとこの活動が広まってほしいなと思うようになっています。
もともと性被害を知ってもらうために経験を語るという活動をしていたので自分にとってはぴったりの場所でした。
本同士では全く違う活動をされている方でも繋がるところがたくさんあったり、勉強になるお話を聞けたり、声をかけて和ませてくれたりととても励まされ元気になる交流ができました。
読者の方には私の場合はカテゴリーの問題もあり、
普段話せないことを話せた、聞きにくいことを聞けた
と言っていただけたりして、すごく嬉しかったです。
今回私は
「性を肯定する- 性暴力被害を経て」
というタイトルで性被害を経て、性を肯定して生きていく、伝えていくと思えるようになるまでのお話ができたらと思います。
希望によりますが1対1でできたらなと思っています。
聞きにくいこともあると思いますが、聞きたいことなど気軽に聞いてくれたら嬉しいです。
本としてはまだまだですが、語るのは慣れているので傷つけるかなと考え過ぎなくて大丈夫です。
ただ私の体験を性的に消費したいという方はご遠慮いただきたいです(笑)
多いんです、そういう絡みが(笑)
他にも
- 想い出の発生する瞬間~見えない障害を抱えて全国行脚~
- 足を無くして心で立って!
- ポリアモリーとして生まれ、ポリアモリーとして生きる
- 男性も女性も好きになるーバイセクシュアルな私
- 自分のために生きよう ~『生きる』を全肯定する~
- 僕は生れつき左目が開かない病気
- トランスジェンダーの人権
- CFS(慢性疲労症候群)と神経疲弊と感性
- 多重人格でも私はひとり
- 「わたしの取扱い説明書」 から今に至るまで
- CFS(慢性疲労症候群)と神経疲弊と感性
- ゾンビですけど何か?
- わたしらしく、あなたらしく ~全身脱毛症の私が今、思うこと~
- MY LIFE~色んなバリアと向き合った20年間~
- 薬物依存について お話しします
【 会場】
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女性の「カワイイ」は好みの部分一致である。女性のカワイイを自分なりに分析してみた。
先日女性のカワイイは味がするという事だ
というツイートを見ました。
世の男性の皆様、大変お待たせ致しました。
— FORCE@3/27FOX貸切 (@saksakstar) 2016年3月10日
昨夜彼女と『女性のカワイイ』について1時間半話してカワイイを紐解きました。
ご査収下さい。 pic.twitter.com/TN50lKt4gw
見て、同意できる部分もあるけれど結構違うぞ?と思いました。
自分なりにカワイイの正体について分析してみようと思います。
※全ての女性がこうだ、全ての男性がこうだ、ということではなく、こういう傾向にあるのでは?ということなのであらかじめご了承ください。
まず、1つに女性がカワイイというときは
カワイイと呼んでいいジャンルの中で発することがほとんどです。
たとえば、習字の筆を見ていてカワイイという人は少ないと思います。
それは習字の筆はカワイイジャンルのものではないからです。
でも、それが筆のデフォルメされた小さいキーホルダーだったらどうでしょう。
キーホルダー、デフォルメ、小さい
というカワイイジャンルに当てはまるので
これ「カワイイね」
となるわけです。
しかし、本人の中でのカワイイがカワイイジャンルのものではないこともあります、それは次の要素が大きいと考えられます。
第2に女性のカワイイは「好み」の部分一致であることがほとんどだと考えます。
ここがツイートと大きく違うと思ったところです。
「カワイイ」だけで買い物をしないのはそのためです。
「カワイイ」のあとにはだいたい言葉が省略されています。
「(このモコモコは好みで)カワイイ(けど、このロゴはイマイチだな)」
「カワイイ(けどこれ値段高いな)」
件の話にもあった通り女性の買い物は好みイコール欲しいではありません。
それは物を買うという行為に対しての考えるプロセスが女性の方が多い傾向にあるからだと考えます。
ここは件のツイートと共通するところですね。
よく男性が好きなものを買ってきて、奥さんに怒られるという構図があるのは
男性は好みイコール欲しいと考えやすいですが
女性は、好みと値段、置く場所など考える要素が沢山あるので
カワイイ(好みの部分一致)だけでは買わないという選択肢が生まれます。
また買物というものに対しての認識が違うということもあります。
色んな物を見て楽しむためにウインドウショッピングをして、本当に欲しいものがあったら買っても良いというのと、
ほしいもの、必要な物を買うために買物をするという違いだと思います。
カワイイはなぜ曖昧なのかということを疑問に保つ場合も多いと思います。
それには2つの理由が考えられます。
1つは曖昧なほうが「都合がいい」からです。
女性は共感の生き物です。
その理由は村社会で子どもを守りながら生きるために、周囲との調和が大事だったから、等と言われています。
また女性の思考回路のほうが複雑に感じるのも、妊娠して子どもを守るためには長期的に自分を安全に置くということを考える必要があったとも考えられます。
私は女性は実は長期的解決を求める傾向にあるが、それを言語化するのが苦手とずっと考えています。
ジェンダー的にも生物学的にもそういう傾向があるのではと思っています。
カワイイは女性の間で共感による連帯意識を持つのに重要なツールになります。
しかし、カワイイは部分一致なので、実はカワイイと思っている部分が違うことも多いです。
たとえばピンクのくまのぬいぐるみを見て
A「このくま(ピンクで)カワイイね!!(これがうさぎだったらもっと好みだったかも)」
と一人が言うと
B「ほんとだ、このくま(の顔)カワイイね!!(これがピンクじゃなかったらもっと好みだったかも)」
と言いますが、思っていることがそもそも違うということが起きます。
でも、同じものをカワイイと思うことを共有することで連帯感が生まれるのです。
ただ、誰かが発したカワイイものが好みではない場合
「カワイイジャンル」のものをとりあえずカワイイと呼んでいることもあります。
この場面に
C「そうだね、(これは好みではないけれど)カワイイ(ジャンルのものだよ)ね」
という会話が加わることもあります。
この場合、はっきり言葉にしてしまうと都合が悪いので、曖昧な方がいいのです。
他にも
自分がカワイくないからカワイイ物に対して穿った見方をする女性は、
好みじゃないけど、あーこういうカワイイもの女の子は好きだよね、はいはい。
というニュアンスで言ったり
本当はたまには女子っぽいこともしたいから、
女子っぽいことをしようとわざとカワイイジャンルのものを見にいこうという時もあります。
本当にややこしいですよね(笑)
でも基本的に女性が自分から発するカワイイは自分の好みと部分一致している!!
ということです。
でも上記の理由からカワイイ理由を明確に言語化することは少ないため、直感的にカワイイとは思っても
どこが?と言われてもわからない人も多いです。
それで、カワイイに対する対処法ですが、
「これは彼女の好みと部分一致しているんだ」
ということを受け入れるということがまず大事だと思います。
これは「自分のことを知ってほしい、できたら共感できたら嬉しい」というコミュニケーション方法であると思っています。
「こういうの好きなんだね」と彼女のことを知るコミュニケーションにすれば良いのです。
分析して決めつけてものにフォーカスして、こういうとこが好きなの?どこが好きなの?と第一声にいうのではなく、
受け入れたうえで、君の好みを具体的に知りたい、一緒に楽しみたいという態度で「どういうところが好きなの?」「俺はこっち好きだな」と加えるのは構わないと思います。
これをカワイイと言っている私カワイイ!!というのは違います。
それは随分穿った見方だと思います。
「これをカワイイと言っていることで私の好みを知ろうとして、私を見て、私とコミュニケーションして」
ということだと私は考えます。
まぁ面倒くさいかもしれませんけどね。
つまり「カワイイもの自体」を見てほしいのでなく、それを通じて「自分」とコミュニケーションをして欲しいということだと思います。
いわゆる男女のすれ違いの話で見くだしや決め付けによる誤解が多いと思っています。
そういうものを言語化することで解決していけたらな、と最近考えています。
苦しいと、楽しいは両立する。 放映を終えて思うこと・2
前回放映の感想を書きましたが、数日経って感じる違和感について書きたいと思います。
色々な方からご連絡や感想をいただき、返せていないものも多いのですが、少しずつ返せたらと思っています。
あの放送では、私の役割は「被害の実態を語る被害者」だったと思います。
山本潤さんは被害者で活動家、林弁護士は慎重な意見を持ち偏らないための専門家からの視点。
性犯罪の実態を伝える上で必要で、そういう意味でトータルでいい番組だったという感想は変わりがありません。ただ、私個人の見え方という意味では伝わり方が違ったのかなと思うところがあります。
だから私個人として思うことを書きたいと思います。
放送のカウンセリングの最後で活動について語っていましたが、私は波はあるものの性暴力に関わる活動は7年しています。
語ることで、自分だけでなく、他の人に少しでもいい影響があって、救われる人がいるのなら・・・という場面がありましたが、一番言いたかったことは、その後でした。
私がいつも思っているのは
「辛い経験も自分が前に進むためになったり、他の人の助けになるなら、"それはあってよかったことになる"」
ということです。
被害に遭って「よかった」というのは語弊があるかもしれません。それでもそれによって私は似たような被害で苦しむ人の気持ちを知ることが出来ました。
被害に遭って人間が信じられなくなりそうなときも、優しくしてくれた人がたくさんいました。
被害に遭って活動したからこそ、出会えた人たちがいます。
私がいたから生きていると言ってくれた人もいました。
だから私は
「世界にはどうしようもない悪意もあるけれどそれと同じ分だけの優しさがある」
「私は人を好きでいることをやめたくない」
と強く思いました。
私は今でもずっと人間が好きです。
人間は凄く汚いけれど、だからこそ美しいんだと思います。
汚い部分はだれだって持っています。100%の善人など存在しない。
だからこそ、その上で優しくできることは美しく価値があると思っています。
悪意は確かに存在するけれど、人を傷つけたくて傷つけている人は少ないと感じています。傷つけていると知らない、認識できないから傷つけることのほうが多い。だからこそ知ってもらう活動が大事だと思っています。
被害と向き合い「あってよかったこと」と思えるようになる。そういう回復だってあるのです。
被害者みんながこうだよ、というわけではないけれど、あえて向き合うことにより立ち直って回復することだってあるのです。
「辛いだろうに、笑顔を取り戻して」
という声をかけてもらったりしました。
たくさん気を遣っていただきました。その気持ちは本当に嬉しいことですが、少し違和感もあります。
人間不信にもなりました。
完全に回復しているとは言えません。
フラッシュバックは何年も経って突然やってくるときもあるのでそこからまた長く苦しくなったります。
私は去年のベンゾジアゼピン離脱症状から、調子がおかしくなっているのでまた当時とは違う種類の苦しさが今あります。
それでもたぶん人一倍楽しいな、幸せだな、と感じる時間が多いほうかなと思っています。苦しくも楽しくもなんともない時間は少ないのですが。
被害者も被害で苦しむとはいえ、24時間落ち込んで泣いているわけではないことだって多いと思います。波はあります。苦しい時間の中に楽しい時間や苦しくない時間が少しずつ増えてきて回復するのです。
被害に遭うのは、苦しいです、辛いです。
でも楽しい瞬間だってある。
苦しいことと楽しいことはどちらもある。
あの放送では緊張で顔が硬かったし、笑顔は少なかったですが私は当時からアクティブで人好きで元気で良く笑いました。無理をする癖もあるからよく倒れましたが。
でも必ずしも苦しい人の楽しさは無理だけではない、ということを知ってもらえたらな。と思うのです。
苦しみにある人の楽しさを、楽しむことを否定しないで欲しい、と思うのです。
その前提がなければ、
「苦しんでいないから被害なんてなかったのではないか」
というセカンドレイプを生むことになると思います。
鬱の人やほかの生きづらさを抱えている人にも同様の声がかけられますよね。
遊べるなら、楽しめるなら大したことがないと。
私が裁判で負けた理由の一つは、当時のブログに
「学生団体のミーティングをしたなどの楽しそうなブログを書いていた」
ということでした。
楽しい瞬間などあるわけがないという前提があるから生まれる判決だったのではないでしょうか。
生きづらさにある人が楽しむことを否定してしまったら回復も遅れます。
苦しいのに楽しめというのは違います。
ただ、楽しんでいることを、楽しむことを受け入れてもらえたらなと思います。
私は同情を引きたいわけでも、褒められたいわけでもありません。
悪く言われるのも過剰に弱く見られるの変に強く見られるのも嫌だったりして。
じゃあ何なんだよと言うとその上で進んでいることを、変えるために動いていることを認めて欲しいだけなのだと思います。
私個人を嫌っても仕方ないと思います。それなら、性被害の実態に興味を持ってくれればいいし、私以外のことで知ってもらえればいい。
ただ、私個人を見てくれるのであれば、そういうところを認めてもらえたら、嬉しいです。伝え方が上手くないのか、言葉が実は足りないのか、私は身近な人にすら極端な誤解をされやすいです。
「苦しいんだけど、そこじゃない、楽しいんだけどそこじゃない・・・」
という状態になりすくてもどかしい、難しい。わかりやすくないんだろうなぁ。
メンタル弱いようでいて私、結構たくましいと思うよ?(笑)
見ないようにする、触れないようにするのでなく、向き合ったうえで乗り越えたい。
伝わらないなら伝える努力をしたい。わからないなら、わかりたい。
そんなことを思いながら、日々暮らしているのです。
今回の性犯罪法改正についての考え
私は2014年11月に性犯罪の罰則に関する検討会にしあわせなみだとして参加し、プレゼン後当事者として意見を述べました。
私は単に罰するために刑期を長くするのでなく、厳罰化するのではなく、加害者更生を目的とした厳罰化が必要と考えています。
番組でもあったように、刑期の最中にしっかりと加害者更生プログラムを実施する体制を整えることが大事と考えます。
私は痴漢にもよく遭いましたが、警察に訴えた限りでほとんどが、常習犯で再犯者でした。
執行猶予中に痴漢をした人もいました。
これらのことからわかるように、痴漢で人生は終わらないです。
報道もされなければ、病欠にしてしまえば会社に連絡されるケースも少ないです。
ちなみに、犯人も警察に行ったらすぐ認めており、下着の中から手を引き抜いているため、私の体液も検出されており、冤罪ではないと確信を持てます。
裁判をした大学2年生のときの強制わいせつ事件も、おそらく常習犯でした。
そして、まったく罪の意識がありませんでした。
このような再犯が起こらないためには、自分は何が悪かったのか、としっかりと考えなおすことが出来、罪を認識できるようになる必要があるのです。
罪を認識できない加害者は、何らかの原因で認知に歪みを抱えています。
過去に何らかの加害を受けていたというケースも多いです。
それを治すことが必要です。
そしてなによりも法律で私が必要だと思うのは法の適用を広げることです。
脅迫、暴行を含まなければ性犯罪として、認められないこと、
性器の挿入がなければ強姦罪として認められず、強制わいせつで罪が軽くなること。
つまりは男性は強姦罪が適応されず、また道具の挿入や、同性などの被害は正当に扱われません。
そういう制限は撤廃する必要があると思っています。
私は非親告罪にする必要があると思っています。
被害者が被害後すぐに自分で訴え出るのは難しいです。
被害直後は解離症状担っていることが多く、精神的に不安定です。
また被害に遭ったと認識して良いのかわからない、という状態になります。
これは自分が悪いからしかたがないのではないか自分を責めることが多く
訴え出ることができません。
また上下関係のある相手だと、訴え出ることが難しいです。
そこで、それを見ていた、気づいた人が通報をして、捜査を始められることで
自分が被害に遭ったと他から見てもこれは性犯罪なんだと思うことができると思います。
しかしそれは慎重な捜査や、現場の対応が整っていることが大前提です。
大事にしたくないという被害者がこれ以上傷つくことが少ないように、本人を傷つけないような仕組みを整えることが大事になってくると思います。
そこに関しては実際どうなるのかがわからないことも多いのではっきりとまだこうだと言えません。
法を改正し整えるということだけでは確かに解決しない問題は多いかもしれません。
それでも法が変わるという動きは大事なことで、それによって余計に傷つく人が減るように、変わっていくと良いと思います。
法を整えたことをきっかけに現場への研修等が実施され、対応が行き届くことを望みます。
集団痴漢被害について
昨日のTV放映で一番言われたのが「集団痴漢なんて存在するの?」ということでした。私のケースのお話を詳しく書こうと思います。
ここから先は読む方によっては苦しくなったりする可能性もありますので、心に余裕のある方のみ読んで頂けたらと思います。
フラッシュバックなど、起こさないように注意書きをしておきます。
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私は学生時代、埼京線を使っていました。
埼京線の先頭車両というのは痴漢の間で痴漢電車として有名らしく痴漢をするために電車に乗っている人もいます。
だから埼京線を使うときは、先頭車両には絶対に乗らないようにしていました。とくに先頭車両の一番前のドアは、地獄です。
慣れるとわかるのですが、埼京線のホームにいると痴漢をするために品定めをしている人がいます。そういう人は後ろに回り、乗り込むタイミングから痴漢を始めます。
私は以前痴漢で新宿の鉄道警察にお世話になったことが在り、その方々に他の日に帰り道に埼京線でお会いしたとき、埼京線で囲み痴漢をするためにネットの掲示板で痴漢仲間を募集する書き込みがあったとのことで見回りをしていると伺いました。
私は埼京線で囲み痴漢の被害に遭ったのは、実はTVで放映されたことのときが初めてではありません。
高校1年生のとき、当時付き合っていた彼氏と一緒に埼京線で帰っていたとき、ホームの端が階段だったため、つい走って先頭車両に乗り込んでしまい、囲み痴漢に初めて遭遇しました。
彼氏はドア側に追いやられ、私はドアとドアの真ん中で四方八方から手が出てきます。
触っていない人も、見物しているのです。混乱して声も出せない状況でした。
1駅後になんとか彼氏が引っ張りだしてくれて出ることが出来ました。それが私が初めて囲み痴漢に遭遇した時でした。
しかし、当時、囲み痴漢をいかに証明するのかわからないため、警察に行っても仕方ないのかもしれないと思いました。
早めに引っ張りだしてもらえて被害も比較的浅かったので、警察にはいきませんでした。
そして件のTVの事件ですが、私はその日は春休みで、髪を切りにいった帰り道でした。私はフィリピン留学から帰ってきた直後だったので、いつも気をつけていることを忘れてしまっていたのです。
いつもなら満員電車に駆け乗るという自殺行為はしないのですが、気が緩んでいて、走って先頭車両の一番前のドアに駆け乗ってしまいました。
その瞬間沢山の人の手が伸びながら、ドアとドアの間の真ん中に押しやられ、四方八方から手が伸びてきます。
そして私を中心にして、沢山の人達が私の方を一斉に向いています。何もしていない人も見ているのです。
最初は混乱して、とにかく手を振り払うのに必死で。とにかく次に開くドア側へ逃げようとします。
それでも押し戻され続けます。
ブラのホックを外され、下着の中にも手を入れられ、体中触られていました。もみくちゃにとにかく乱暴に。
そのとき、私はスカートにソックスで、履いていたのが紐で結ぶタイプのショーツだったため、下着を剥ぎ取られました。
降りようとしても真ん中に引き戻される。
大きな声は出せませんでしたが「やめて下さい、降ろして下さい」と言ってももちろんやめずに、誰も助けてくれません。
今でもあの異様な光景のイメージは強く頭に残っています。欲望の渦に巻き込まれる感覚。
こんなにもたくさんの人間が、自分の欲望を満たすためだけに人を傷つけることができるのか、と絶望してしました。
男たちはターミナル駅で一斉に降り、私は軽く服を整えたら放心状態のまま電車に乗り、その次の駅で私もなんとか降りて、ボロボロのままホームのベンチに倒れこみ意識を失いました。
夜でホームの端だったので誰もいませんでした。被害から抜けてから家に帰るまでのことは当時の日記でも記憶が曖昧です。解離症状があったのだと思います。
そのときはショックでほとんど話すことも苦しくなり、警察に行くどころではありませんでした。
おそらく私は母に電話をしたのでしょう。迎えに来てくれた母に、連れられて帰ったことは覚えています。
そのときは訴えるという気力もありませんでした。訴えるのは無理だと思っていましたし、証拠もないのに、訴えるための労力を割く余裕はまったくありませんでした。
その当時すでに複数の性犯罪の被害経験があったのが重なって、限界でした。これ一つというよりは今までの経験すべてで限界でした。
それから満員電車が辛くなり、人口密度の高い密室にいるのが耐えられなくなりました。頻繁に意識を失うようになり、倒れることが増え、大学に通えなくなりました。
私はその後寝こむことが増え、ひきこもりになり、もともと行動的だったのにやりたいことができなくなりました。
でもこのままで終わらせたくない!と被害の経験を知ってもらうためにブログで公開し始めました。当時小林美佳さんの著書を見たのがきっかけです。
それから中野さんに出会いしあわせなみだで活動を始め、今に至ります。
性犯罪というのは本当に信じられないことばかりです。今まで生きてきた常識なんて覆されてしまいます。
そんなことが現実に起こるはずなんてない、と思うのも、分かります。だって私だって遭うまでは知りませんでした。
でも、この活動を始めて、たくさんの方が
「実は..」
と相談したり、打ち明けてくれるようになりました。
隠れた被害がこれだけあり、そしてその反対に自分の身近にあるわけがないと思っている人の多さにも驚きました。
あるわけないと思うから、「そんなことに遭うお前がおかしい」となってしまう。そんなことに遭う自分が悪いのかとひたすら自分に原因探しをしてしまう。
そのことにより、一度被害に遭った人は複数の被害に遭うようになります。
性暴力に遭いやすい人というのは確かにいるのも事実で。
— 卜沢彩子 (@ayakourasawa) 2015年11月18日
でもそれは「自分は性暴力に遭っても仕方のない人間だ」「性暴力に遭いやすいのは自分に原因があるのかもしれない」
と思っている人なんですよ
つまり、性暴力に遭う人を心配して原因探しをして追い詰めることこそが遭いやすくなる一番の原因になってしまうのではないかと思います。
— 卜沢彩子 (@ayakourasawa) 2015年11月18日
だから私はどうしたら遭わなくなるか?と聞かれたら「私は性暴力にあっていい人間じゃない」
— 卜沢彩子 (@ayakourasawa) 2015年11月18日
と思うこと、「あなたは性暴力にあっていい人間じゃない」
ということを伝えることではないかと最近思うようになりました。
性欲を刺激するか、ではなく支配欲を刺激するかなんですよ。
— 卜沢彩子 (@ayakourasawa) 2015年11月18日
自分に責任を求めそうな人を狙うんです。
ずっと言われてきた当たり前の言葉が最近すっと落ちてきました。
目を背けたくなると思います。
見たくない時に積極的に向き合って考えろ、というのは違うと思います。
男性が悪いのではありません、男性でも被害に遭いますし、そもそも男女で対立しても無意味です。
悪いのは性暴力をする人、痴漢、そしてなによりそれを許す風潮、それを生み出す社会構造です。
それを変えていくために動くことは、きっと多くの人が生きやすい環境を作ることになると思っています。
そういう現状がある、ということを知っていただけて、頭においてもらって、考えるきっかけになったら幸いです。